滋賀県 . 琵琶湖
日本 最大의 湖水, 길이 63.49 km ,둘레 241km,面積 670.4km2의 ‘琵琶湖(びわこ)'는 滋賀県 全體 面積의 1/6을 차지한다. 또 쌀 産地로 有名한 近江盆地(おうみぼんち)의 논밭에 灌漑用水를 供給하며 地域 住民들에게 多樣한 海産物도 提供한다. 더불어 京阪神(けいはんしん. 京都,大阪, 神戸를 軸으로 하는 大都市圈) 地域의 든든한 물독 役割도 하고 있다.
近畿地方
近畿地方の定義は、大阪府・京都府・兵庫県・滋賀県・奈良県・和歌山県・三重県の2府5県となっています。
琵琶湖周航の歌
1~6番
作詞 : 小口太郞 作曲:吉田千秋 歌 : 加藤登紀子
歌詞
* 歌詞の著作権は1954年に消滅している。
*
我は湖(うみ)の子 放浪の
우리는 호수의 아들 방랑의
旅にしあれば しみじみと
여로에 있으면 촉촉하게
昇るさ霧(さぎり)や さざなみの
끼이는 안개와 잔물결의
滋賀の都よ いざさらば
시가의 도시여 그럼 안녕
**
松は綠に砂白き
솔은 푸르고 모래는 희고
雄松(おまつ)が 里の乙女子は
오마츠ㅇ가 마을의 처녀는
赤い椿の 森蔭に
빨간 동백의 숲 그늘에
はかない戀に泣くとかや
덧없는 사랑에 운다는구려
***
波のまにまに 漂えば
물결 사이사이 떠다니면
赤い泊火(とまりび) 懷しみ
빨간 정박등불 그리웁고
行方定めぬ 浪枕
갈곳 없는 파도 베개
今日は今津か長浜か
오늘은 이마즈ㄴ가 나ㅇ가하마ㄴ가
****
瑠璃(るり)の花園 珊瑚(さんご)の宮
유리의 화원 산호의 궁전
古い傳えの 竹生島(ちくぶじま)
옛날 전설의 죽생도
佛のみ手(みて)に 抱(いだ)かれて
부처님 손에 안겨서
眠れ乙女子 安らけく
자려무나 처녀야 편안하게
*****
矢の根は深く 埋(うず)もれて
화살촉은 깊이 묻히고
夏草しげき 堀のあと
여름풀 무성한 해자 터
古城にひとり 佇(たたず)めば
고성에 혼자 우둑히 서면
比良(ひら)も伊吹も 夢のごと
히라도 이부키도 꿈같은 일
*****
*
西國十番 長命寺
사이고쿠 쥬방 죠메이 사
汚(けが)れの現世(うつしよ) 遠く去りて
더럽혀진 현세를 멀리 떠나서
黃金(こがね)の波に いざ漕(こ)がん
황금의 파도에 자 저어가리
語れ 我が友 熱き心
전하라 우리벗의 뜨거운 마음
概要
琵琶湖を中心とした滋賀県の風景が歌われる、全6番からなる曲である。
この曲は1917年(大正6年)6月28日、第三高等学校(三高。現在の京都大学)ボート部の部員による恒例の琵琶湖周航の途中、部員の小口太郎による詞を「ひつじぐさ(*未草)」(作曲:吉田千秋)のメロディーに乗せて初めて歌われた。その後この歌は、三高の寮歌・学生歌として伝えられた。
이 곡은 1917년 6월 28일, 제3고등학교(현,교토대학) 보트부 부원에 의한 항례의 비와호 일주 도중, 부원 오구치타로(おぐち たろう)의 가사를 'ひつじぐさ'(작곡 요시다치아키)의 멜로디에 맞추어 처음으로 노래했다. 이후 이 노래는 三高의 寮歌(りょうか, 기숙사가)・学生歌 로 전해졌다. * 「ひつじぐさ(*未草) ; 睡蓮」(未草 : 미시(未時) 무렵에 개화 )
1933年(昭和8年)に 最初のレコーディングが行われた。第二次世界大戦後、多くの歌手によって歌われたが、特に1971年(昭和46年)に 加藤登紀子(かとう ときこ)がカヴァーしたレコードは大ヒットを記録した。
歌の舞台となった琵琶湖畔には、複数の歌碑が立っている。
歌の「誕生の地」とされる滋賀県高島市今津町には琵琶湖周航の歌資料館がある。
滋賀県 高島市 今津港 琵琶湖周航の歌碑
三高ボート部の琵琶湖周航
第三高等学校に水上部(のちのボート部)が設立されたのは1892年(明治25年)のことである。部員による琵琶湖一周の漕艇は、創部の翌年1893年(明治26年)に初めて行われた。漕手6人舵手1人からなるフィックス艇に乗り、艇庫のある三保が崎(大津市)から時計周りに琵琶湖を一周するというもので、3泊ないしは4泊程度の旅程で(2泊という強行スケジュールが組まれたこともある)行われた。この周航は、1940年(昭和15年)頃まで行われていた。
제3고 수상부(후일 보트부)가 설립된 것은 1892년(메이지 25년) 일이다. 부원에 의한 비와호 일주 조정은, 創部 다음해
1893년(메이지 26년)에 처음 열렸다. 漕手6명 舵手1명으로 구성된 고정(Fix)정을 타고 정고(艇庫)가 있는 미호가자키(오츠시)에서 시계 방향으로 비와코를 일주하는 것으로 3일 내지 4일 정도의 일정으로(2박의 강행 일정으로짜여지는 경우도 있음)열렸다. 이 일주는 1940년(쇼와 15년)경 까지 이루어지고 있었다.
琵琶湖第一疎水取水路右岸にある
旧制第三高校のマークの入った漕艇庫
♪ われは湖の子さすらいの 旅にしあればしみじみと
昇る狭霧やさざなみの 志賀の都よいざさらば~~
ここから琵琶湖を時計回りです。
加藤登紀子 - 琵琶湖周航の歌
第三高等学校、現在の京都大学の漕艇部の歌として 小口太郎作詞、吉田千秋作曲で生まれた歌。
小口・吉田両者とも三高の漕艇部部員。 以来、日本を代表する青春歌として愛されてきました。
因みに第一高が現在の東京大、第二高が東北大、第四高は金沢大学、第五高は熊本大学、第六高は岡山大学、第七高は鹿児島大学です。
九州大学も大阪大学も名古屋大学も北海道大学も 当時ナンバースクールと呼ばれたエリート校ではありませんでした。
규슈대학도 오사카대학도 나고야대학도 홋카이도대학도 당시 넘버스쿨이라고 불렀던 엘리트학교에는 없었다.
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